何となく見えてきたのは

リスカする人たちとそれを見る人たちとのコミュニケーションって微妙なもんがある。
一つは「共感」、もう一つが「反感」、そして「放置」。まあ、mixiのコミュニティなんかを見ててもたいがいこんなんでしょ。で、まだ仮説ですらないんだけど、ザーッと見てるとそれらは相互作用的にはたらいてる。

「共感」コミュニケーションを図る人達はリストカッターを哀れみ、同情の念を示したり自分の体験を語り、励ましたりもする。
「反感」コミュニケーションを図る人たちは『本当は演じてるだけでしょ?』と、とにかくリストカッターメンタルヘルスの欺瞞性を疑う。
「放置」コミュニケーションを図る人は「反感」コミュニケーションを図る人たちと同様、欺瞞性を疑いもする。が、結局、面倒に巻き込まれるのを避けるため、或いは自分の理解の範疇を超えていると考え、敢えて『放って置くべき』『自分で何とかすべき』と言う。

その反応を分けるのは「本当の弱者かどうか?」と言う点であることが多い。この場合は特に「精神病に罹患しているかどうか?」が問われるのが一般的であると思う。

とりあえず現時点で思うのは「共感」コミュニケーションは「反感」コミュニケーションを煽る。そしてその対立を見て辟易した者、或いはそもそも諦観している者が「放置」コミュニケーションを図る。で、「反感」や「放置」コミュニケーションは「共感」コミュニケーションを強化する(「反感」に「反感」を覚えて連帯が強まる)事がよく見られる。
後、「脱リスカ組」が強く「反感」コミュニケーションを取る事が多いのも覚えておかなければいけないだろう。

今日のところは、チラチラとmixi内のコミュを巡ると、上記のような考えに至った。